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説教要旨21/2/28「よろこびの時」

イザヤ書 35:1~10

マタイ福音書 12:22~32

「よろこびの時」

 

 受難節にイェスの苦しみを覚える時に、聖書に因果応報はなじまないということを知ることは大事だと考える。この世界は原因と結果という因果律でできていると考えるのが普通である。あまり知らないのに話すと迷惑をかけるが、仏教は思想的には因果応報を採るようだ。輪廻転生の思想は、そこに因果応報があるからである。この世で徳を積んだら来世で豊かな生を送ることができるというのは、因果応報だと理解している。仏教的に言えば、この時代・場所に生まれ育った私たちは前世で相当徳の高い生き方をしてきたことになるが、本当にそうだろうか。

 

しかし神は因果応報を無視する。そうでなければ、様々な奇跡は起きないし、人に救いはない。最初から滅びが用意されており、そこで終わる。なのに神はそうされず、むしろ人の尻拭いをしながら、イェスを送り出し十字架に付け、復活させる。因なくして果ありである。神がヘブライ民族を選ばれた。優秀でも信仰深いわけでもない小さな民族を神が選ばれたと聖書は記す。これも因なくして果ありである。

 

 今日の新約に登場する病人も、因果の流れから離れて、イェスの一方的な力によって癒されたのである。もしここに因果を求めるならば、イェスによって病気を癒されるために病人として生きてきた、とでもしないと辻褄が合わなくなる。ただファリサイ派の人々の考えが因果応報であったならば、病気はその人や親が罪を犯したからだというような理解をしていたかもしれない。

 

そこからベルゼブルの話しに流れていく。ベルゼブル(ハエの王)というのは、バアルゼブル(高貴な主)を悪く言い換えたダジャレだそうだ。当時人々がどう考えていたかは分からないが、自分たちにできない病気を癒したイェスの悪口を言うのに、神の名を出すわけにもいかず、苦し紛れにベルゼブルの名を出したと考える。正直に神の名を出して一緒に神を褒めたたえていれば歴史は変わったであろう。

 

イザヤは今日の解放預言で語る捕囚からの解放も、イスラエル民族が神のもとに帰ってきたからではなく、ただ神の慈しみによるのである、良い人たちだから神に呼び出されるとは語っていない。神に向き合えない人々を救い出すと語っている。

神はベルゼブルとイェスを嘲ったファリサイ派の罪をもイェスに背負わせて十字架に掛けられるのである。因果が破られるとこういうことが起こる。

森 哲

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