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説教要旨21/1/31「導きの声」

 

イザヤ書 30:18~21

マタイ福音書 5:17~20

「導きの声」

 

 私は“律法”を誰かに説明する時、律法は方位磁石というふうに話す。方位磁石を基準にして、自分の選ぶ道や方向が明らかになるのである。針が北を指しているから北が正しいのではない。そんな決め方をしたら、山なら数時間で遭難するだろう。基準がぶれないから、安心して行く道・方向を選ぶことができる。

 

異邦人伝道に向かったパウロは、キリストは律法を越えた、キリストにおいてユダヤ教は完成したとパウロは理解していたようだ。律法はもはや不要とパウロが異邦人に対して述べ、それが地中海世界に広がる要素となったが、今日のイェスの言葉との関係はどうなるのか。特に異邦人キリスト教はパウロの路線の上を歩いてきた。使徒会議(言行録15:28・29)の決定が、大きな意味を持って異邦人の信仰生活をユダヤ教の細かな律法から解放した。

 

 新約において神の言葉は、共同体へ向けられた律法ではなく、わたしたち一人一人に語り掛けられる言葉となってきたと考える。ある意味では、それこそ私たちが望むことかもしれない。しかし生活のどこまでを神の言葉によって聞き従うのかという問いは出てくる。よく言うチャーハンかラーメンか問題からなのか、隣り人になるかどうか問題か、選挙の時は? 日々の生活の中から出てくる判断・決断の成果が、人生を作り上げていくのだから線を引いて分けることは難しいのである。

 

 逆に線など引かずに、私は神の言葉を聞いて生きていくという決断の方が正しいのであろう。誤りや失敗は必ずある。しかしそれでも私が神の言葉を聞いた上で歩んだ道だという方が、人生すっきりするのではないだろうか。主体は私。神の言葉が導き手。そこからなら律法問題からも自由になれそうに思える。

 

律法を捨てることなく完成させるというイェスの言葉を私たちが聞く時に、そこには私が選ぶという決断がある。その上でイエス・キリストが私の生きた律法としてあることになる。いわば私のためのオーダーメイドの律法とでも言おうか。それなら安心して生きていける。ただしオーダーメイドである以上、一定以上の普遍性はないことも確かではある。だから私以外に対しては、どこまでもイエス・キリストの証しである。この点は理解しておかないと不毛な対立を生むことになる。それは避けた方がよいだろうと考える。

 

森 哲

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