· 

説教要旨20/11/29「御子が来られる時に」

 

 この24日に私たちの信仰の友を神様のもとにお送りした。新型コロナ・ウィルス禍の中で、限られた方しか葬儀には参列できなかった。しかし私個人は個別にお別れに来られた方々と故人のお話をしながら、お見送りできたことを幸せなことだったと思い返している。同時に、その時その時の与えられた恵みを受けたと感謝している。

 

 今日からアドベントになり、御子の誕生を迎える時となった。クリスマスの根底には、死と終末が含まれていると考える。それゆえに今日の聖書もそのような個所が選ばれているのだろう。イザヤ書もマタイも終末預言であり、先に述べたように御子の誕生の出来事にも当てはまる話ではある。クリスマスの出来事は、ご存じのように博士たちと羊飼いたちにしか知らされなかった。これもマタイとルカで違うので、ほぼ誰にも知らされなかったと言ってよい。

 

 終末はこの世のすべてを変える出来事であろう。人々は自分の生活や立場からふるい落とされることを怖れる。しかし、その時を知ることはできない。だから常に備えておきなさいというのがマタイの述べる終末への対処である。

イザヤ書では、終わりの日にはすべての人々が神をたたえて主の神殿の山に集まるとある。世の終わりは、神を賛美する人々の喜びの日であり、そこには平和が満ちていると語られている。アドベントが始まる今日の聖句としては、同じ終末預言でも旧約に軍配が上がるように思うが、皆様はどうだろう。

 

 その時は誰も知らないとマタイには記されているのだから、そのまま飲み込んでしまえば、悩む必要もなくなる。その上イザヤが語るように、神の前に人々が喜び集う時なら、どれほど良い事だろう。その時には、もはや私たちが日々悩んでいる事柄から解放される。悩んでいることから解放されるのに、その時が怖いのだろうか。

 むろん信仰の問題として考えれば、先にある希望の光として見ることはできるのだが、なかなかにそこには到達できないのである。私たちは目の前にある日々の様々な問題の方に心が縛られていて、そんな先のことを見続けている余裕を持っていないようだ。

 

 クリスマスの出来事を経験すると、御子の誕生と言う喜びの時の中に、今日の聖書が共に語る終末を見出すことができるのである。それはまず喜び集まることを可能にしてくれる。そしてまた御子が私の罪の赦しのために十字架に掛かられるという未来における出来事が、神からの呼びかけと赦しの先取りとして与えられていることを知らされる。

 御子の誕生は終末の出来事が先取りした形で現れている。

 森 哲

HOME