ミカ書 2:12~13
マタイ福音書 25:31~46
「呼び集める声」
新約はマタイのみの資料で、初期の迫害と結びついて編集された可能性がある。このような勧善懲悪物語は、おそらく世界中にある。日本の昔話にも「こぶとり爺さん」「おむすびころりん」「舌切り雀」などが思い浮かぶ。日本の昔話では神様は出てこないが、おそらく仏教説話の類と理解して良いのだろう。日本の昔話では欲深い人たちが罰を受けるので、貪欲や強欲も罪の内に数えられていることになる。
貪欲・強欲な人は、ある意味計算高いと言える。自分の損得を考えて行動する。昔話もそうだが良いとされる人たちは、そういう計算をしないで、楽しんだり、喜んだり、憐れんだりしている。ご褒美が欲しくて何かをする人たちではないことが、新約と共通している。今日の新約の人々も損得勘定や欲得で動いてこなかったことが、神の裁きの前で誉を受け、損得勘定や欲得で動いてきた人たちは裁きを受ける。神の前でなくとも、あまり計算高い人は周囲からは好かれないので、生きていく上でのお説教とも考えられる。
そうすると、良い事をして神様に見てもらおうでは、すでに計算が入っているのでダメなのではないか。新約を突き詰めれば「根っから良い人になりなさい」「周囲のすべてに対して常に良い人でありなさい」ということになるのだろう。しかし私には、それは無理ではないかと思えてしまうのである。
ミカ書の人々への呼びかけは、新約の話しとは明らかに異なる。今日の個所は捕囚からの解放が語られ、13節は解放を呼びかける者に呼応する人々、そしてその全ての先に神が立たれていると記してある。繰り返し、あるいは毎回のように私は言うが、神はご自分が立てた契約ゆえにイスラエルの人々を憐れみ導き、共におられるのである。決して良い人たちの集まりだからではない。捕囚からの解放も、人々が悔い改めて良い人々へ生まれ変わったからではない。神がご自身を人々に証しされるために、イスラエルを解放しエルサレムへと導かれたのである。そこに人の善し悪しは問われてはいないのである。
クリスマスにはサンタがプレゼントを持って子どもたちに配ってくれる。聞いた話では、ドイツのサンタは悪い子には石炭1個を置いていくそうだ。私が子供ならそんな日は来てほしくないと思うだろう。それとも良いものがもらえるように、毎日良い子でいようと頑張るのだろうか。どちらにしても、単純にうれしい日ではないように思う。
呼び集める声は、良い人・悪い人という区別を超えてすべての人への呼びかけの声である。また無視しようとしても、迫ってくる声でもある。自分を顧みることは大事だが、呼びかけの声を聞くことの方が、実はよほど大事なことと考える。
森 哲