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説教要旨20/11/8「自分で選ぶ」

創世記13:10~18

マタイ福音書 3:7~12

「自分で選ぶ」

 

 9月中旬の説教で、私が子供のころに遊んだ巻紙で行く先を決めて進んでいくものを作ってみた。手作りなので全部違う。したがって手に取った時点で、ある意味決まってしまう部分がある。これは私たち一人一人が生まれた時代・場所が違うのと同じで、変えることはできない。与えられた場所で、選択をして進んでいくという意味を考えるヒントになれば良いかなと作ってみた。

 

 今日の旧・新約でも選ぶ場面が描かれている。旧約ではアブラムの甥のロトが良い土地を選んで移っていったことが注解書などでは非難されるのだが、アブラムから独立して一族を率いる責任を持つようになった者なら、当然の選択だろうと考える。アブラムがその選択を求めたのであるから、ロトが非難されることはないと思うのだ。さらにその直後に、アブラムは神の祝福を受けたのだからなおさらのことである。それにロトは、その後ソドムの災厄に会うのだから決して良い選択をしたとは言えないのだ。

 

 考えるべきは新約の方に出てくるファリサイ派やサドカイ派の人々である。今日の人々は、それぞれの派閥でありながらヨハネの悔い改めの洗礼を受けに来たとあるので、自分たちの内にある神との関係に問題があると感じたからこそヨハネのもとに来て“洗礼”を受けて清められたい、悔い改めようと願ったのだろう。

しかしヨハネは、彼らに対して最初から敵対的な応対をする。キリスト教で育ち、新約からの教えを多く受けていれば、ファリサイ派、サドカイ派はイェスの敵と覚えさせられているので、ヨハネの言動に賛成されるだろう。

 しかしそれは今のキリスト教の立場であって、当時のユダヤ教を踏まえたものではない。ヨハネのもとに来た人々は、学もあり立場もあるのに、自分自身や社会に問題を感じて、わざわざヨハネを訪ねてきたのである。普段は威張り散らしているのに、洗礼までも受けたいのか、貧しい人々に与えられる恵みまで奪い取りに来たのか、というのがヨハネの言いたかったことなのだろう。

良い実を結べ、斧は根元に置かれている。と言う言葉が示すように、ヨハネの目からは、ファリサイ派やサドカイ派は神の裁きを受ける側に置かれている。

 

 11、12節を読むとヨハネが獰猛な番犬なら後から来るのは厳しい主人の如くである。

しかしである。悔い改めて、良い実を結べでは、人は救われないのである。11節にある来るべき方は、ヨハネの告げたような方ではなかった。敵をも赦し、慈しみをもって人々と接する方である。ヨハネが告げたような裁きの厳しい主人ではなく、罪を赦し、解放を告げる過ぎ越しの子羊である。

森 哲

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