イザヤ書 44:1~8
マタイ福音書 22:34~40
「道が示される」
『隣人を自分のように愛しなさい。』何年かごとにこの聖句が出てくる。この聖句は旧約聖書のレビ記19:18に出てくる。教会にいれば、“隣人愛”の勧めとして何度も聞かされた聖句だろう。私も幼い頃から何度も聞かされた。しかし私はいつ頃からか、この句に対して疑問を抱くようになった。この聖句の前提は、私が自分を愛しているというところから始まっている。はたして本当に人は自分自身を愛しているのだろうか。自分の持つ何らかの価値、それが社会的なものであれ自己満足であれ、なにかがあってそんな自分を愛するというのは判る。そういうものを取り去った時に、なにもない自分を愛するという人が、どれだけいるだろうか。
必要なのは、他者からの愛を受けること、しかも社会的相対的な愛ではなく、絶対的で無償の愛を受ける時に、はじめて何もない自分も愛されていると安心できるように思う。したがって、あなたは神の絶対的な愛の内にあるから、自分の誤りを許して愛して良いのだ。
だから他人をも同じように愛してみよう。という呼びかけなら、受け入れることもできるように思う。神からの愛なしに、人は他人どころか自分すら愛せない存在ではないかと考えている。
その神は、イェス・キリストを私に与えた神である。きょうのイザヤ書に記されているように歴史の始まりから人と関わり、守り導かれた神の姿こそが、その愛を示す神である。
今日の個所はバビロン捕囚からの解放の時期に働いた第二イザヤとされている。イスラエルの歴史を考えると、特別に他の民族から優れていたわけではない。神を忘れて歩んできた歴史を聖書は記している。ただ主なる神が、自分自身に誓ってイスラエル民族の神となると言われ、その言葉を守られたから、彼らは歴史の中に消えることなく今に至る。
出エジプトやバビロン捕囚からの解放と歴史的な神の行為を経験してきたことが、彼らの信仰の根源であり、神から愛されていることの証しであった。そうした経験があるから、『隣人を自分のように愛しなさい。』と言えたのだろう。したがってイェスがレビ記から引用したこの言葉は、神の歴史という前提なしに真理として受け入れることは難しいと考える。
聖書の歴史をなぞるようにと神はその子を、私のために十字架に掛けてくださった。イェスの誕生から十字架と復活までの出来事が、すべて私への神からの思いであり、私の歴史的経験となるようにしてくださる。その歴史的経験をクリスマスを迎える時に心に刻みたいと願う。
森 哲