フィリピの信徒への手紙3:7-21
「その苦しみにあずかって」
フィリピ3章は、読者に奇妙な印象を与えるかもしれない。3:2では、敵対者を「犬ども」と呼び、割礼を軽蔑しているかと思えば、私は肉にも頼れると言い、自らのユダヤ人としての優秀さを誇りだす。しかし、その直後に、それらは塵芥、屑であると言い出す。この章には、パウロの逡巡と混乱がある。しかし、この内に、パウロ自身の本当の姿が明らかとなっている。
9-11節に、パウロのキリスト者としての告白が語られている。重要句とその直訳は以下である。9節「キリストを得て、キリストの内に見出されるため。/キリストのピスティスによる義。」10節「キリストと、その彼の復活の力と、その彼の受難のコイノニアを知り、その死と同じ姿になるため」ピスティスとは、通例では信仰と訳されるが、その第一義は、「信実、誠実」である。コイノニアとは、「交わり、密接な結合」である。
パウロが「ピスティス・クリストゥー:キリストの信実」と語る時、そこにはパウロの告白がある。それは「イエスは神に対して、その信実を貫いた。その歩みの中で、差し伸べられたイエスの手によって私の命が与えられている。イエスは命を裏切ることがなかった」という告白である。「受難のコイノニア」とは、「イエスの受難との密接な結びつき」である。ここに、パウロの、自らの十字架を負おうとする覚悟がある。そして、その中にあって、自問しつつ生きる姿がある(12節)。
その後、パウロは競争のメタファーを用いたり、「私に倣え」と言ったりしているが、これは言い過ぎだろう。彼は、その歩みのごく初期には、「主に倣う者」と語っていた。このような、狭間で生きるパウロの混乱について、太宰治が言葉を残している。「神学者にとっては、難解であるとされるが、私達には、なんだか一番良く分かるような気がする。高揚と卑屈の、あの美しい混乱である。」この、パウロの混乱は、正に、己自身が本当にキリストと向き合おうとする時に与えられる混乱である。
我々も、時に、混乱の中でパウロのように走り出してしまう。信仰の競争のようになってしまう。しかし、イエスは十字架への歩みの中で、魂の痛みを前に、ゆっくり向き合い、手を触れ、語った。その歩みが、受難と復活へと結実していったのである。
私達もまた、雑然とした日々の中ではあるが、イエスの十字架とその歩みにだけは、目を離さずにいたい。イエスは、私達に向き合い、その一歩一歩の歩みと共に生きて下さる。そして、その内に、神は私たちに目を注いでくださる。
田中耕大神学生