箴言 3:13~20
ローマ書 11:33~36
「神の前にはお手上げ」
以前から思っていたが、人間とは不思議な動物である。昆虫や魚類等ははっきりしているが、メスなら産卵までが生き抜く意味で、産卵後に死ぬ昆虫や魚類は多い。哺乳類も基本は子孫を残すことが生きることの意味のように見えるのだが、人だけは、子育てに時間がかかるとしても子孫を残すだけではなく、他の何かをもって生きていくことのできる力を持っている。
中でも先進国と呼ばれる国の人々は、子育てに20年以上をかけるが、それでも子離れ後の時間が今や子育ての時間以上にあるのである。昔は人生五十年と言い、十年前くらいは人生八十年と言い、今ではCMで人生百年時代と言うようだ。それゆえに生きることの意味を必要としているともいえる。生きることの目標。それに向けての努力というのが、生きていく意味となるのだろう。それこそ千差万別であって、またそれぞれに価値があるとしか言いようがないのだろう。
それでいて、人生という長いような短いような時間の中で目標を見つけようとするとなかなかに難しい。時間の流れの中でとこれまでに話したが、誰かにバトンを渡し、自分の生きている時間を超える何かを見つける時には、ある意味では焦らなくてもよい生き方を選び取ることができるように思うが、それも難しいことだ。
今日の旧新約聖書が示している神の知恵の豊かさと深さに到達はできないが、それでも端っこに触れるくらいはできるだろう。その端っこに触れるためには、自分を手放すことが近道のように思う。自分が、自分がと抱え込んでいると見えてはこないように思う。不思議なものだ。先に述べたように、人は自分なりの生き方を選ぶことができるし、それを目標として進むと言いながら、自分を手放す時に神の知恵の端っこに触れるとは。
たとえば大粒の宝石も握りしめていては、自分にも人にも見せることはできない。自分のものだ、失ってはならぬと思うほど、こぶしは固くなる。残念なことだ。手を開いて見せ合えば美しさも共有でき、互いの宝石を褒め合うこともできるのに。自分のだと思えば思うほど見えなくなる。何か固い感触だけがわかるだけで満足しないといけないことになる。
今日の題は「神の前にはお手上げ」とつけた。確かに神の前には隠すことなどできないし、すべては神の前に明らかなのだが、自分から神の前に手を広げて立ってみよう。神からの光が、持っている宝石をさらに輝かせてくださる。その輝きは他の人々にも届くし、人を生かす光となるだろう。
森 哲