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説教要旨20/9/27「キリストが内にある」

歴代誌下 7:11~16、

エフェソ書 3:14~21

「キリストが内にある」

 

 イスラエルを統一したダビデが計画したが、神から拒否された神殿。ダビデの息子ソロモンは父の思いを形にすることができた。それまでは移動する幕屋だったものが、どっしりと場所を占め、国家統一のシンボルとなったのである。政教分離を国是とする日本では考えられないが、現代でも政教一致の国は存在するし、ソロモンにとっての神殿は、まさに政教一致のシンボルであった。政教一致は、時として政治主導の都合の良い神を生み出す。やがてそのようになるのだが、それにもかかわらず、ただの器に過ぎない神殿に神が入られる。そこを聖なるものとしてくださるのは神である。

 

エフェソ書ではキリストは、私たちの内に入られると著者は書き記す。ソロモンの豪華で華麗な神殿と、弱くもろい肉体との対比は神がどのように人との関わりを変えられたかを示しているように思う。しかも人が計画したものではなく、神ご自身が計画され実行されたのである。

エフェソ書の中心的な考えは、キリストがすべての人に神の下への道を開かれたということである。そして「神との結びつき」は、たんに私という個人にとして関わるものではなく、信仰者がより大きなひとつの結びつきとして形作られていくことを意味しているようだ。この「まとまり」とは、キリストが導く教会のこととなる。キリストが私の内にあり、あなたの内にもあり、キリストが私たちを結び付け、教会と言う目に見える生きた共同体を作り出されるのである。

 

小さな群れとして出発して教会も、2000年の時を経て、様々な個性を持つ教会へと成長した。それを困ったことと考えることもできるが、違いが新たなものを生み出し、そこに人が集まるようになったことを思う時にエフェソ18、19節の言葉が大きな意味を持つと考える。人が人であることは、誰とも違うことをよしとされた神の創造によるのであるから、様々な考えや形によって神が賛美され、礼拝が守られ、日々の生活が送られていくことは、神の前に正しく、同時にキリストが私の内にあることの意味である。そこに人の知識を越えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが豊かに示されている。

 

 それぞれには思い煩いが様々にあっても、キリストが私たちの内にいてくださる。それゆえに折れることなく、迷うことなく多くの人と腕を組んで歩んでいくことを神は喜ばれると考える。

森 哲

 

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