エレミヤ書 50:4~7
1ペトロ 5:1~7
「簡単にみつかる?」
結論から言うと神の時間と人間の時間、単位が違いすぎてかみ合うことがないように思う。千年を一日の如くとする方と、今日一日をどう過ごすのかを考えている人間とでは、最初からかみ合うはずもない。それでもどこかに交点があるのだろうか。時間の流れの中に答えが浮かんでいるのだろう。
平和について、知恵の問題、自由と責任の問題、選択について考えてきたが、結局のところ私たちの時間の中で答えが見えるかどうかということが、私たちにとって最重要なのだろう。イェスの再臨がいつか、第1ペトロでもすでに再臨を先のこととして、長老は群れを牧するようにとある。主よ、来たりませ。(マラナタ)という声は、教派によって今も響くが、20世紀の神学者ユルゲン・モルトマンは、「すでに」と「未だ」の間に私たちは生きていると述べた。キリストの復活と再臨の間という意味である。
ここからは私たちと世界との関係、歴史の流れの中で生きることについて考える。終末と再臨が私たちの生きている内に来ないと私たちの人生に意味はないのかと問うてみたい。答えが意味なしならば、すでに神の元に召された人々の人生も意味がなかったことになる。彼らは終末を見ていないのだから、彼らの信仰はむなしいものであったことになる。それは違うだろうと考える。
彼らの信仰を受けついで今の私たちがあり、また次の世代に引き継いていこうとする力も与えられるのではないのか。私たちで終わりなら、神の前に恥ずかしくない生き方をして終末の時を待てばよいのである。
信仰を受け継いでいくことは希望を受け継いでいくことなのだろう。私はよく神の歴史を神が織るタペストリーに例えている。私はその中の一本の糸を構成する細い繊維である。糸というほど大したものではない。自分では全体像も、自分の位置すらも定かではないのであるが、それでも用いられていることに感謝したいと思うのだ。今の自分が織られている真っ最中なら、これから先は知るすべもない。多くの人々との交わりの中で図柄が浮かんでくるのだろう。
批判的に言うつもりはないが、今の時代は個人の生き方に比重を置く。それだけ時代が進んだのだろう。しかし、歴史は個人の生の時間の中で完結しない。点が線となり面となっていく時間が必要である。最初に述べたが私たちは結果を見ることはおそらくできない。したがって私たちは未来の誰かに信仰や思いを託していくのだろう。そのために今の与えられた生があると考えて、様々な選択をしながら、バトンを握りしめて次の走者に渡すために走っているのだと思うことができれば、それはそれで意味ある生き方をしていると考える。
森 哲