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説教要旨20/9/13「どっちに行けばいいの?」

エレミヤ書 28:12~17

 ㈵ヨハネ 5:13~21

「どっちに行けばいいの?」

 

 私たちは毎日毎日小さな選択をしながら生きている。何を食べるかというような小さな選択も、積み重なれば生活習慣病というような結果を招くこともある。むろん突然大きな選択を迫られる場合もあるが、それもこれまでの選択の上に選択肢が出てくるだろう。突然、今までと全く違う判断基準が示されるわけではない。その時を通して変えられる可能性はあるのだが、それはこれから先の自分を変えていくきっかけとなるだけで、その時すぐに変わるものではないだろう。

 

 小学生の頃、ノートなどから巻紙をつくって鉛筆で線を引いて、途中で分岐している道を友達に選んでもらう遊びがあった。巻紙だから先が見えない。分岐を選んでいくと失敗なら×で終わり、つぎつぎと選んでいってゴールすればやったね!という遊びだった。長い巻紙、三又や五又の分岐、途中で道が繋がるものなど、子供なりにいろいろと工夫をしていたものだった。あの巻紙遊びを人生に例えてはおおげさになるが、子供なりに先の見えない道を進んでいくことの難しさを覚えていったのかもしれない。

 

 旧約は、預言者ハナンヤとエレミヤの闘いである。人々の喜ぶ預言をするハナンヤと嫌われ者のエレミヤ。聖書を知る者からすれば、最初からエレミヤを選ぶのだが、当時の人々はハナンヤの言葉を喜んで受け入れたが、神の言葉はエレミヤに臨んだのであった。

 かといって1ヨハネでは、14節で神の御心にかなうことを私たちが願うなら、神は聞き入れてくださるとある。それでは何が御心かを知らねばならないが、何週か前に知恵について考えた時に、それは実際のところ難しいことを知らされた。それで結局は自由と責任をもって選ぶしかないことを先週で学んだ。

 

 どっちに行けばいいのか? 神がいつもいつも答えてくれるのではない。いくつもの道しるべは与えられているが、それでも選ぶのは自分なのだ。喜んでよいのだろうか。突き詰めれば結構重いのだけれど、それでも自分の選んだ道を歩んでいくことを喜びたいと願う。子供の巻紙遊びと違って×の先にも道は用意されている。×は自分の人生の全否定ではない。成長するための一里塚なのだと思って、乗り越えることが神から許されている。

 旧約ではバビロン捕囚が、新約では迫害が人々を襲うのだけれど、最終的には神の憐れみと導きの中を人々は歩むことができた。道に悩み苦しい時にこそ思い出したいと考えている。

森 哲

 

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