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説教要旨20/8/16「神を試す信仰」

士師記 6:36~40

 1ヨハネ 5:1~5

「神を試す信仰」

 

  ギデオンはなぜ神を試したのか? 自分のことなら、こんな真似はしなかったのではないか? 自分の命のみならず、一緒に闘う人々の命について考えたのではないかと思っている。勝負は神が決めるにしても、誰かが命を失うのが戦いである。それを考えれば、神に問いたくなるのも無理はない。このへんが、後の王とは違うところだろう。

神の声かどうかをどう知るのかと聞かれると困るのだが、自分の得になることなら疑ってみる。自分の損、誰かの得になるなら神の声かもしれないと考えればどうだろう。誘惑の声が、自分の損になるような事を告げはしないだろう。

 

 昨日、戦後75年の終戦記念日を迎えた。それゆえにこの時期に平和を語ると戦争反対となる。しかし平和の対義語は様々な意味で混乱(カオス)だと考えている。自然災害も平和を乱すし、今の新型コロナ・ウィルスという疫病も世界中に混乱を引き起こしている。混乱は正されないとさらなる無秩序を生み出す。自然災害も疫病も、国家間の問題も解決されてこそ平和が生まれる。

 さて争いは、その原因をどこに求めるかから始まる。イスラエルの民は、歴史で見れば後からカナンに入ってきた人々である。先住者を追い出した場面も、聖書には描かれている。ならば、ギデオンの時代に、先住者も含めて攻めてくるのは自分たちの土地の回復のための闘いとなる。一方でイスラエルからすれば、神の与えた土地という理解がある。これは話し合いで解決できる問題ではないように思う。それは今日でも続いており、問題解決への道を見つけ出すことは難しく、平和を作り出せてはいないのである。

 かたや新約は、イェスをメシアと告白する群れに注目する。この時代、すでにキリスト派は迫害の中に置かれており、迫害に耐える道を選んでいたので、闘うことをもって自分たちの信仰を守る方法はとらなかった。神の掟とあるが、神の与えた秩序の中にいること。その秩序を守ることから与えられる平和を選んだと言える。様々な人の集まりが、イェスにおいて一つにされていたと読むと、ある種の驚きを覚える。すべてを失ってもイェスに対する信仰があれば、この世の生活など無に等しい。神への信仰による兄弟姉妹の集まりがこの世を越えた幸福なのだという言葉に、かろうじてアーメンとは言うが、その輪の中に入ってはいない俗人の自分を思い知らされる。

 かといって震災で被災したこの教会も、祈りとお支えで建築されたことを考えると、キリスト者の群れの力も大きなものであることも確かなのだ。この世と神を信じる者の群れ、はたしてどちらが強いのだろうか。その答えが出る日が来ることを祈り待ちたい。

森 哲

 

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