「人が死んだ後って、どうなるのだろう?」と誰しもが考えたことがあるのではないでしょうか。わたしも小学校6年生の時に考えたことがあります。今回は私の経験と経験を通してキリスト者としての変化を少しだけここに書こうと思います。
わたしが小学校2年生くらいのときでしょうか。祖父を亡くしました。クリスチャンではなかったのでお寺で葬儀をあげて、棺を真っ白な空間に納めたのを今でも覚えています。その空間はとてもきれいで、まるで天国のようでした。ただ、両親や親戚の人たちはオイオイ泣いていました。子ども心ながら【人が死ぬってオイオイ泣くことなのか】と思い、祖父の顔をしばらく眺めましたが、なにも感じませんでした。優しいおじいちゃんのままでした。【(おそらくもらい泣きで)ウルッときたけど、泣いたらおじいちゃんがかわいそうだから】と,泣くのを我慢しました。
葬儀後は祖母の家に帰って、仏壇に余ったカレンダーの裏に、おじいちゃんへ手紙を書きました。【おじいちゃんへ。骨になっちゃったけど、ずっと見守っていてね。勉強もがんばるからね。ももより】と書いて、仏壇に飾りました。
ところがその7年後、祖母も天に召されました。私が中学3年生のときです。原因は階段から落ちてしまってそのまま帰らぬ人へ。おばあちゃんが亡くなった時の気持ちは、小学校2年生の時と変わらず何も感じませんでした。【いつもお小遣いをくれるおばあちゃんが目の前から居なくなってしまった】ということだけはハッキリしていて、感情はなにひとつ感じませんでした。ただ分かったのは【命はいずれ尽きる】ということでした。
そして社会人になって2年目(現在)に私はクリスチャンになって、過去の経験をこのように書いていますが、【人の命はいつか尽きる】ことは確かです。ですが、天に召されたからといって【そこで行き止まり】ではないように思います。「私たちは目に見えないものに目を注ぎます。なぜなら、目に見えないものは永続するからです。」と使徒パウロは力強く励ましています。(きっと後押ししてくれているのだな)と一瞬にでも思えたら、悲しみから安らぎに変わり、勇気の一歩へと踏み出せるのではないでしょうか。
Sirius