箴言 9:1~11
コリント 11:23~34
「控えおろう!このお方を…」
ご存じ水戸黄門の助さんだか格さんの決めゼリフである。数十年続いたテレビの長寿番組であった。勧善懲悪物語の典型といってよく、主題歌と共にみんなの心に残っている番組だろう。
そこで考えるのだが、悪役はなぜ葵御紋の印籠と水戸光圀の前にひれ伏すのだろう。葵紋の印籠や先の副将軍水戸光圀が意味を持つのは悪党といえども徳川幕府の家臣であるからだ。つまり勧善懲悪という話だが、よく考えてみれば単なる内輪もめなのだ。黄門さまが懲らしめ、処罰を与えると述べた後、みんなが感謝して話は終わる。しかし現代風に考えれば徳川幕府の任命責任が問われる問題であり、幕府の威信をゆるがす問題ではないかと無粋なことを考える。
さて今日のパウロは助さんだか格さんだかと同じセリフをコリントの教会にぶつける。「控えおろう!主の定められた主の晩餐(聖餐式)をなんと心得る。このように乱れた主の晩餐を、イェスをキリストと仰ぐ者たちのすることか。主の前にふさわしいものか考えてみよ。自らに裁きを受けるために飲み食いしているのか。」非常に厳しい言葉で、コリント教会の主の晩餐のありようを非難し、悔い改めて皆が共に守れるようにと導いている。しごくまっとうな教会批判であり、導きであるように思う。キリストの印籠は大きな力となっただろう。
しかし時がたち、今日の個所が聖餐式の式文として読まれるときに、27~29節が正しく読まれているのかと言う疑問を持つ。洗礼を受けていない方々を排除する言葉として用いられていないか。前後を読めば自分たちが問われているのに、他の人に向けた言葉として読んでいないか。悪代官のように私どものしたことではございませんと、身勝手な申し開きをしていないかが問われよう。
この教会で行われている聖餐式では、始めに教団の式文にはない未受洗者への祝福の祈りをおいている。教団の式文が欧米の式文の翻訳で済ましているだけなのかもしれないが、それにしても欧米と違い一握りもいないキリスト者の礼拝で、勇気をもって教会の礼拝に来た人たちへの配慮がないのが不思議である。今日の準備でいくつかの教会の式文をネットで読んでみた。各教団単位では相変わらずだが、各個教会では未受洗者への祝福の祈りする式文が作られてきている。
最後に決めゼリフを。「このお方をどなたと心得る。すべての人の罪を赦すために十字架に掛かられたイェス・キリストであらせられるぞ。」
森 哲