列王記上 17:8~16
ローマ書 14:7~12
「自由を喜ぼう」
ロマ書は、ここだけ読むとずいぶんと高尚な話のようだが、前後を読み合わせると、こんなものを食べてよいのか、食べてはならないのではないかという話の中に置かれている。食物規定を問題としている人々へのパウロの判断が示されている。
旧約聖書では、食物規定がレビ記11章にある。その中でもさらに厳しく律法を守った人たちは菜食主義であったらしい。それを守りながらイェス派に改宗した人々が、他の人々の食事に文句を付けたのであろうか。日々の生活で聖書に関わるだけに、意外と難しい問題であったろう。
パウロはここで、食物規定の善し悪しを判断しているのではない。神の前に置かれている一人一人なのだという根本に触れて、生き方を選ぶようにと勧めている。安息日に麦の穂を摘んだ弟子をかばうために、「人の子は安息日の主なのである」マタイ12:8と叫んだイェスの姿に似ている。私たちは人と人の間で生きている、パウロはそれを承知で、神の前にいる一人一人なのだと語り、だからこそ人が人を裁くのではなく、神の裁きに任せるようにと勧める。
先週は橋本先生から教会形成基本方針(案)について学ぶ時を持った。基本方針案を作ったのは役員会だが、招かれて喜んで来ている教会生活について文字にしてみるとびっくりするほどの内容となった。全部が全部できているわけではないが、ほとんど全部がすでにみんなの中で努力しながら頑張って行われており、理想の教会像や目標として作られたものではない。むしろキリストを伝える群れとして香櫨園教会の現状を崩さず前に進むために、守り伝えていくために作られたものである。
実際のところ、このような方針を作れる教会は多くない。文字にせず慣習法でやってきて、信徒や牧師が変わっていく中で、どういう方向、何を目指して進むのかがぼやけてしまった教会が多いように思う。私の中では、牧師の代替わりまでの間にできて本当に安心している。これで数十年、香櫨園教会はしっかりと歩んでいくことができるだろう。
しかし長い時間の中で、これが問題となる時が来るかもしれない。時代によって教会の姿も変わるのだから改訂すればよい。一人一人が神に祈り求めた上で話し合い、新しい歩みの方向を考えていけばよいのである。香櫨園教会の上に神の祝福と導きがあるように祈る。
森 哲