ハバクク書 2:1~4
第1ヨハネ 2:7~14
今回の無会衆礼拝の間、週報をみなさんにお届けするのに歩いて廻ってみた。すると色々な発見が歩いている中であった。こんな花がとか、ここが古戦場なのかとか様々であった。適当に歩くので、たまには突き当りという場合もあったが、それはそれで楽しく歩いていた。春の散歩を兼ねた週報配りとなった。それらの道は町中のことだから、行政が作ったのだろうが、時間と労力を考えると大変なものだと思う。
人の住むところに道を通すのも大変なら、何もないところに道を通すのも大変だ。山を掘りぬいてトンネルを作る。町の下を掘りぬいて地下鉄を通す。山なら技術的問題だろうが、人の理解や思いを変えてでも道を作るには、大きな計画と決断がいるだろう。
神の歴史に対する計画も似ているように思う。人々の願いとは異なる大きな計画のために、イスラエル民族を選び取りわざわざ文明の交差点のような場所に導き、小さな民族宗教から世界宗教へと成長させられた。その中では、多くの苦労や悲しみをイスラエルの民に強いたことになる。神に用いられることを喜ぶべきなどと言う気は全くない。それは今の私たちも負うべきものであるからである。出来上がった道を歩いたり車で通ったりする人々のためには、道を作る人たちの苦労が必要なのだ。
今日の旧約は、バビロンに滅ぼされる直前の預言者の言葉である。エルサレムは失われるが、神の言葉を信じる者は失われない。時が来て、そのことが明らかにされていく。私の理解によれば、それはイェスの福音において明らかにされると考えるが、それでも終わりではない。歴史はなおも続き、今の私たち、また未来に向かって続いていく。そこではやはり苦労しながら、道を作り続ける人々が必要であり、神がそれらの人々を召し出して用いられていくのである。
神の慈しみは世界に及んでいる。そこでは人と人とが平安に暮らし、お互いを認め合う穏やかな世界であろう。最近のニュースでは、正反対の方向に向かっているように思えるが、それでも神が歴史と世界の主であることを信じる時に、繋がる大切さや思いを伝える言葉、自分のできる小さな努力の積み重ねの上に人と人との関係が変わっていくことに期待したい。
森 哲