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説教要旨 20/5/17「共にいて導く神」

2020年5月17日説教要旨
出エジプト 33:7~11

ヨハネ福音書 16:25~33
「共にいて導く神」


 緊急事態宣言から早いもので1ヶ月が過ぎた。8都府県を除く地域には緩和の指示が出され、兵庫県でも5月中には緩和措置に移るだろうと言われている。やっと礼拝が再開できるという思いと、その後も基本的な安全策をとりながら進めていくのに、どのような方法が可能かと言う様々な思いが頭の中でぐるぐる回っている。


 教会暦も復活節の終わりを迎える時期となって、今週の21日木曜日が昇天日、復活のイェスが天に上げられる日となり、聖霊降臨日が近づいてきている。この教会暦に従うと、そばにいて共に歩いて導いてくださったイェスが私の目から消え、神により内から働く力を受けてこの世を歩んでいく時が来るということである。先週の話では、弟子たちの進む先には苦難が待っているが、それでもみ言葉を伝える働きに進むように語られたイェスだが、それでもそばにいてくださるときには失敗しようが苦しもうが共にいてくださることの心強さは確実なものであった。しかし、イェスが天に上げられ目の前から消え去った時に、内から働く力は受けるのだが、それにしてもの喪失感と不安、自分の足で歩いていくことの自信のなさ等が湧いてくることは避けられないのだろう。それが弟子たちであり、私である。そんな弱さを抱えて歩かねばならない人間にイェスの言葉は響くのである。


 新型コロナ・ウィルスの影響は、今後どれだけ続くのかは分からない。麦の会で食事は共にできるのか。週報にもあるが、LINE礼拝の聖餐式は今後どうするのか。何より礼拝を閉じて「伝道」できていないということをどうするのかが問われてくる。


 今から扉が開く。教会はその扉から歩き出していかないといけない。これまでにはなかった道を自分たちで作りながら歩いていくことになる。インターネットでの礼拝は多くの教会が行っているが、アプリの機能が違えば守り方も違う。教団で統一することもできない。各教会も悩みつつ歩き出し、お互いの様子を伝え合いながら、共通性や理解を時間をかけて見つけ出していくのだろう。それに至るまでは、自分たちで考え歩むという経験を積まなければならない。歩む道が正しいとは限らなくても、歩むことで新たな発見もある。失敗もまた持ち寄って分かち合う時の成果として意味が出てくるのである。この教会もこの無会衆礼拝の間、不安でありながらも守られてきた経験を持っている。離れていても神の前に一致した礼拝を守れたことの幸せを知っている。
 そこに至った道は、単なる偶然ではなく神の御手の内にいたことの証しとなると考えている。自信があるから歩き出すのではない。神の導きを信じて新しい一歩をここから踏み出していくのである。

森 哲

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