2020年4月26日説教要旨
「日々の中で出会う」
イザヤ書 61:1~3
ヨハネ福音書 21:1~14
ティベリア湖とあるから対象読者はローマ人だろう。イェスが実際に復活したことを描くために、無理にでも弟子たちをガリラヤに帰して、そこでイェスに出会ったという描き方をしている。さらに、共に食事をしたことにより、復活した生き生きとした姿を強調したのだろう。
イェスが復活されて、私たちのいる世界に戻ってこられたのに、教会は天国を中心に話してきた。イェスも天に上げられたのだから、私たちも天に上げられることを望んだとしても、悪いことではないのだろうが、なぜイェスが復活されて弟子たちの前に姿を現したのかを考えてみると、人が天を望む以上にイェスは地上にいる人々を大事にされてきたということに気が付く。
今日のヨハネ福音書では、復活のイェスが弟子たちの現れたのは3度目とある。そしてヨハネでは彼らは故郷ガリラヤに帰りついている。
ところが復活のイェスは、ガリラヤに帰った彼らを怒りもせずに受け入れておられる。人が一番に求めるものは、食べものであり、それをまっとうに手に入れる手段である。イェスは彼らに遠くから声をかける。彼らが不漁であったことを答えると、それでは船の右に網を下ろせと言われた。彼らはその言葉に従い、大漁に出会う。ここに天国は出てこない。むしろ生活の中にイェスが入ってこられることが記されている。漁というある意味で運まかせの職でも、イェスの言葉によって豊かな収穫が与えられ、さらに陸に上がってみると食事の用意までしてあったとある。これを読む限り、イェスは弟子たちを天国に招いておられるとは思えない。この世にあって生きていくのに必要なものを与えられ、また共に分かち合ってくださる方と描かれている。
ヘレニズム文化だけではないが、死者と生者は同じものを食べることはできないとされているので、イェスと弟子たちの食事は生きている者同士でないとなりたたない。したがって、イェスと弟子たちが一緒に食事をしたことを含めて、イェスの思いは生きている弟子たち、そして生きていく弟子たちに向けられているのである。
最初に述べたが、教会が天国を語るのに、イェスは生きている場所に来てくださる。そしてその場所で生きていくことのできるようにしてくださっていることを、今日の個所は示しているようだ。それは二千年たった今も同じである。天国へおいでと手招きされているわけではない。今私たちが生きている場に来られて、生きていけるように、導き支えてくださっているのだ。
森 哲