2020年4月12日説教要旨
「信じられん!復活」
イザヤ書 55:1~11
ヨハネ福音書 20:1~18
2度目の無会衆礼拝となった。受難日礼拝は夜だったので、この朝の光景よりも寂しかった。今の光景は、ある意味で空の墓をみているようで、主はここにはおられないという声が聞こえてきそうな感じがする。そうこの朝イェスは復活されて皆様と共におられる。誰もいない礼拝堂の中で一人語る牧師とLINEの向こう側で聞いてくださっている会衆を結び付けているのはテクノロジーであるが、それを越えた結びつき「信仰」がなければ実現しないこの礼拝を心から感謝したい。
疫病には、空は薄暗く、うすら寒い風が吹き、荒れ野が広がるというイメージがあったが、外の春の光景は実に美しく、今年は桜もまだ咲いていて、夙川には鴨が戻ってきた。毎年の春の光景と新型コロナ・ウィルスの蔓延が同じ世界、同じ時間の中にあることが不思議に思える。
イェスの死と復活は、私たちの生き方を大きく変えた。その事実は重い。わざわざ日曜日の朝早くに家を出て、献金まで献げて教会に行くのだから、普通は考えられないことである。それだから一般の方々から、教会に通う人は「敬虔な」とか「まじめな」とかいう形容詞付きで呼ばれる。内から見れば、決してそんなことはないと言うが、それこそ信じてはもらえない。そして礼拝に集う根源的な理由が「イェスの復活」であるとなれば、これはもう東京スカイツリーからバンジージャンプしま~す‼くらい信じられないのだろう。
これは現代日本だからではない。二千年前のユダヤ人も信じなかったのだから、今でも信じる人がいるのが不思議なくらいである。教会の歴史は、褒められたものではないが、ただひとつ誰も信じない「復活」を第一に語ってきたことだ。もっと人を引き付ける言葉はあったろうに、人が身を引くような「復活」を語り続けてきた。合理的な解釈も、科学的な根拠もない。ただ事実があった。その事実に圧倒された人々が語り伝え続けてきたのである。門外不出の秘密にしてきたわけではない。どこでも話してきたのに聞いてもらえなかった。そんな出来事もあってよい。
教会に集う人たちは、イェスの復活が自分と深く関わっていること、それが神の業であることに気付かされたから、集い祈り賛美するのである。今日の礼拝に招いてくださった復活のイェスに感謝しよう。
森 哲