私の外科医としての最終盤に出会った患者さんを紹介しよう。その患者さん(Aさん)は、昨年の9月に某ホスピスで亡くなった。亡くなる前に、そのホスピスのドクターから、「Aさんが入院されて、先生(私のこと)に会いたいと言っておられるので、来てもらえませんか」という連絡があった。
Aさんは外科医をしていた時にがんの手術をさせてもらった。手術の翌年から年賀状の交換が始まった。私が外科医を辞めてホスピス医になってからも、病院をいくつか異動してからも年賀状は続いた。外科医を辞めてから実際にお目にかかったことはなかったが、年賀状での交わりは20数年に及んだ。始めは患者さんからのお礼状との思いで受け取っていた。それが年数を重ねていくと、お元気な様子を知らせてもらえることが、私にとって大きな励みになっていた。
早速、Aさんが入院しているホスピスを訪ねた。
「先生、嬉しい。望みが叶った。最期に先生に会えて、思い残すことなく旅立っていける」と眼に涙を溜め、痩せて細くなった指で私の手をしっかりと握ってくれた。私も涙が止めどなく溢れ、久方ぶりの邂逅の時を惜しんだ。Aさんはその後数週で旅立たれた。
それから1年が経った。ホスピス医になってからは、自分の未熟さを思い知らされることが多く、外科医時代には(現在もかわらず)、患者さん方々にさぞや無礼なことをしていたのだろうなと、昔を思い返し、穴があったら入りたい心境にさせられるときがある。そんな私でも、「最期に会いたい」と言ってもらえたことは最高に嬉しかった。
20年に及ぶ年賀状の交換を通して、ちょっとでもAさんの支えに私はなっていたのだろうか。いやいや、本当は、私の方こそAさんにいつも見守られ、また育てられていたのではなかったのか。それは亡くなられた後も同じで、人と人との時空を越えたつながりの中で、意識下にあって目には見えないけれど、私の生きていく力になっていると思えてくる。
ホスピスという人間存在の際だった場面で出会う人たちからは、有形無形の多くの愛をもらっている。それを受け止められる感性をいつも持ち続けたいと願っている。
目を覚まして感謝をこめ、ひたすら祈りなさい(新約聖書 コロサイの信徒への手紙 4:2)
細井 順