ホスピスで70代後半の老夫婦に出会った。患者さんは奥さんの方だった。がんの進行によりお腹が張っていたので、それを緩和するための入院だった。1週間の入院でお腹は落ち着き、自宅に戻ることになった。
その後の生活について、奥さん(患者さん)がいろいろな心配事を私に投げかけてきた。自分のやりたいことをいろいろと挙げては、できるか、できないか、何を食べたらいいか、苦しくなった時にはどうしたらいいか、今後はどんな症状が出てくるかといったことである。夫の方は、微笑みを浮かべながら奥さんの質問を傍で聞いていた。慌てる様子もなく心配性の奥さんを見守っていた。
人生は山登りにたとえられる。尾根を上り、谷を下り、一歩、一歩、また一歩、頂上を目指して登っていくという訳だ。山の頂きに達した時に人生の終わりを迎えるイメージである。
はたまた、人生を山登りにたとえた時、山の麓からひとつのルートを登り始め、そして山頂を窮めたあとに別のルートを辿って麓に帰ってくるというイメージもある。
いつの間にか、人生100年時代といわれるようになった。テレビでは若さを保つために、健脚を維持するためにと健康関連商品の売り込みが盛んである。ウーン、100年間も山登りを続けるなんて、私には何とも酷な話しだ。最後は麓に帰るイメージの方が落ち着く。
件の老夫婦であるが、「昔のようにさっさっさと動くわけにはいかないし、疲労回復には時間がかかるし、美味しいものも食べ過ぎたらお腹が張るし、食事だけでなく、生活全体を腹八分目よりもさらに控え目にして腹七分目でいくことでしょう。いってみれば、これからの人生は山の頂上から下りてくるようなときだから、長年連れ添ったご主人と山からの景色を見渡しながら、のんびり麓まで下りましょう」と話した。すると、黙って聞いていた夫も「二人で一人前や」と合いの手を入れた。
山を下りるときに必要なものは、「信仰こそ旅路をみちびく杖」(賛美歌21、458番)である。
「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしがあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46:4)
この杖を手に、私は山を下りていこう。
細井 順