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いのちが輝くということ (4)「信なき時代の信仰」

 今の時代は、信なき時代、嘘で固められた時代になってしまった。森友・加計問題を巡る国会での議論を報道で知る限り、正義や公正など社会を構成していく上でもっとも基本的なことがらはないがしろにされている。自分のことしか頭にないようだ。憤りも悲しみも通り越して、人間性の喪失をさえ覚える。

  元関西学院大学神学部教授で筆者の敬愛する窪寺俊之先生の御本には、信ずる対象には三種類あり、それは自分を信じる自信、他者を信じる信頼、神仏を信じる信仰とあった。

  現代のネット依存社会では、スマホさえあれば世界中の情報は瞬時に手に入るし、大概のモノは居ながらにして自分の手元に届く。自信をもってワンクリックするだけである。誰かに頼んだり、相談する必要はない。

しかし、何らかの理由でワンクリックできなくなったらどうなるのだろう。スマホをなくしたり、病気などで指先が思うように動かせなくなったときにはどうなるのか。自分で身の周りを整えることができないならば他者を信頼するしかなくなる。

 元来、信頼関係はお互いさまという関係である。こちらが信頼せずに、相手から信頼されるというようなわけにはいかない。助け合う関係を築くには時間がかかる。長年にわたって培われた関係が信頼を生む。ただし、他者を信頼していたとしても、他者も自分と同じ人間である限り、いつの日か死を迎え、その関係には終わりの時が来る。

 信仰は目に見えないこと、証明しようのないことを信じるということである。科学技術の進歩で、その恩恵に浴した現代社会ではなかなか難しいことである。  
 信仰とは神との対話である。距離を置いて自分自身を見つめ直すことができる。そのとき、目の前に広がる汲々とした生活に間合いができる。その隙間に神の恩寵が注がれると、不思議なことに人生の推進力が生まれる。この推進力には終わりがない。

 人間性の回復のためには自信よりも信頼、信頼よりも信仰である。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(新約聖書 マタイによる福音書2820節)

 

細井 順