「神の手」を持つ男と言われるような名医がいる。とても人間わざとは思えないような鮮やかな手つきで難しい検査や手術をする医師のことを指す言葉である。元外科医の筆者が思い浮かぶ現場は、顕微鏡を使って脳や心臓の細い血管を短時間で上手に縫い合わせることのできる外科医のイメージである。
「神の手」は、医療に限らず、その分野においては凄腕の達人といわれる人たちに贈られる称号だ。
「神の手」があるなら、「神のこころ」もあるのではないかと思った。「神のこころ」とはどのようなことをいうのだろう。生物学的にいうと、どんな生物であれ、子孫を残すことと自己防衛が二大命題である。つまり人間は自己本位にできている。そうであるなら、「神のこころ」とは、生物特有の自分中心な考えがなく、徹底的に利他的に生きることなのであろう。
キリスト教では神を「天の父」と呼ぶ。神は父親のイメージなのだ。新約聖書の中に放蕩息子の物語(ルカによる福音書15章11節)があるが、そこに描かれた父親の姿が筆者には「神のこころ」に思える。
さて、運よく「神の手」を得たとしても人間には必ず終わりの時が来る。ホスピス医として、そこで出会う人たちは優しい。在宅で人生の残りの時間をすごす人たちはすこぶる優しい。その家の主人だからなのだろう、訪問診療に当たる我々を暖かくもてなしてくれるのだ。
誰ひとりとして同じ人生を歩むことはない。にもかかわらず、ぎりぎりまで追い込まれた時に現われる人間共通の優しさとは、一体何なのだろう。人生の終わりに、自己本位から離れて「神のこころ」が自然と湧き出ているようだ。
「神の手」といわれるような技は誰もが持てるわけではないが、「神のこころ」は誰もが持っている。人間はひとりでは生きられず、互いに助け合うように「神のこころ」が誰にも与えられている。大切にされることを求めるよりは周りの人を大切にしていくことを意識しながら歩んでいきたい。
細井 順