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いのちが輝くということ(1) 「救い主を感じるならば」

 

 筆者は昭和26年生まれである。

今年から在宅ホスピス医をしている。生死のあわいを必死で生きる人たちから多くのことを教えられる。

これまでに出会った人たちを思い出しながら、人生の深みや妙味、醍醐味を探ってみたい。

 人生は思った通りにはいかない。思わぬ時に幸運に出合ったり、また不運に見舞われたりする。幸運に出くわしたときには普段の行ないがよかったからと理由付けをして、不運の時には神も仏もないというように、いい時には自分のせいにして、悪い時には他者のせいにする。

人間とは手前勝手なことだ。

日常の生活の中で出くわす幸運や不運に際しては、そのような理由付けで済ませられるであろうが、生や死に関するような人生の大事については、運、不運の問題だけでは済まされない。そんな時には、人間の力ではどうにもならない、もっともっと大きな力が作用しているのではないかと考えてしまう。

人の誕生も死も、人間的な理由付けだけで納得できる答えにはならない。なにか、説明はできないが不思議な力が働いていると思うと気持ちが楽になるものだ。

 私には昨秋初孫が誕生した。五ヶ月を迎えているが、その一挙手一投足に喜びを覚える。これからが楽しみで、私に新たな生きがいを与えてくれた。

一方で、90歳の母親の介護をしている。年齢からくる心身の衰えは隠せず、これはこれで大変である。一言ひとことに苛立ちを覚える(こともある)。

母親に対する感謝の気持ちに寸分の揺るぎはないが、近頃の母親には参ってしまう。孫も母親も人間の考えが及ぶ範囲を超えた不思議な出会いであり、私には見守っていくことしかできない。

 イエス・キリストを救い主と信じて生きることがクリスチャンである。イエス・キリストとは何者かについて記されているのが聖書である。何度も読んでいるが、イエス・キリストの全貌を人間の頭で理解することは到底できない。万が一、理解できたとしても、それがイエス・キリスト自身が理解されたいと思っている姿なのか。おそらくそれはないだろう。私が理解して、私が救い主と判定するのではなく、私がイエス・キリストに理解されていると感じるならばそれでいいのではないだろうか。イエス・キリストとの出会いは人間の思いを超えている。 

 人生とは、躓きながら主の定められた道を、それが険しい道と人間には映る道であっても、イエス・キリストを感じながら歩んで、終りには両手をひろげた救い主に迎えられるということなのだろう。

 

細井 順