カテゴリ:説教要旨



2022年 · 2022/04/04
 桜が開花し、新しい時が始まろうとしている。宮本先生とは何回か引継ぎをしたが、それでも慣れるのにそれなりに時間がかかるだろう。皆で支えて香櫨園教会の新しい出発を共に担ってほしい。

2022年 · 2022/03/28
この題は、「救い主が死をもってすべての人を救う」ことに尽きるのではないか。 今も戦争が起きている。偉い人は戦わず兵士が戦い、勝利は偉い人の手柄となる。

2022年 · 2022/03/20
昨日、昨年12月に葬儀をした方の百箇日の記念会をさせていただいた。賛美歌に21-575「球根の中には」を選んでおいた。ちょっと難しいかなぁとも思っていたのだが、驚くことに保育園に行っている二人のお孫さんたちが歌いだした。

2022年 · 2022/03/06
ある方の話し。教会とは縁はないが、悩み苦しむ方にお祈りしますとは言えず、神様はその悩みと苦しみを癒してくださると言い切った。

2022年 · 2022/02/27
エリシャは神の預言者ではあるが、彼に与えられた力は神のものである。ところが今回の話では、エリシャは、弟子に杖を貸し与えて子供を生き返らせようとした。

2022年 · 2022/02/20
“たとえ”はたとえで、本質を示しはするが、決して同一ではない。本質の周囲をぐるぐる回っているだけである。したがって、“たとえ”で満足している限りは、本質に迫ることはできない。

2022年 · 2022/02/13
育つのはなにも良い種だけではない。悪い種だって育つのだ。種を受け入れる大地も、それなりに種との相性が合って、何でも良いというわけではないようだ。

2022年 · 2022/02/06
ダビデが神殿の建設資材を集めた時に、感謝をもって神に祈ったという個所である。ダビデは名君として名高いが、彼の願いであった“神殿”建設は、神から拒否される。

2022年 · 2022/01/30
先週の弟子たちの呼び出しと構文は同じで、旧約的な物語と読める。イェスと霊に憑かれた男の対決は、霊と霊の対決であるから、人の目に映る出来事とは異なる。

2022年 · 2022/01/24
 ヨハネ福音書によるとシモンとアンデレは、洗礼者ヨハネの下にいたようだ。洗礼者ヨハネが捕えられた後、ガリラヤへ帰り漁師に戻ったのだろう。イェスもガリラヤのナザレで大工の息子であったのだから、失意の内にガリラヤに戻ったとしたら、父の仕事を継いで大工として生きたであろう。

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